アーカイブ 2009年 9月



荒城の月 鶴ヶ城  会津

2009年 9月 30日

会津 鶴ヶ城
曽禰達蔵は、戊辰戦争の終焉を、どこで迎えたのでしょうか?
白石から会津にかけての、どこかであると思います。
aidujyou
 

 

 

 

 
この城と戊辰戦争、特に白虎隊の悲劇は切り離せません。
「荒城の月」の舞台は、数ヶ所の城を上げられます。

滝廉太郎でなく、作詞を担当した仙台出身の土井晩翠が詞を構想したとされるもは
仙台市の青葉城址、同じく会津若松市の鶴ヶ城址だtったお言われます。

この城は、その美しさは悲劇が裏打ちした場所なのでしょう。
白虎隊のメンバーの年齢も、この時、曽禰達蔵も同世代。

この敗戦が、その後の彼の生き方に、大きく影響したのは間違いありません。
本来ならば、戊辰戦争に負けた彼は、主君である小笠原 長行とともに、
箱館戦争に参加し、死をも覚悟すべき立場でいながら、長行は唐津への帰郷を命じたわけです。
その理由は何であったのか?

曽禰の才能と将来を温存したかったのか?
曽禰が、その後、才能に比して決して表舞台を歩かなかったのは、
例えば、辰野金吾、ジョサイア コンドルの影として生きたのは、この辺りの歴史的背景が深く影をおとしていると私は思います。

パンクロックのストラングラーズ
メンバーの中には、三島由紀夫の愛読者もいたと言われますが、この曲を演奏しています。

Scorpions – Kojo no Tsuki – Japan Tokyo 1979


曽禰達蔵

2009年 9月 30日

いいすか?
なぜ、私が、ここまで工部大学校造家学科(東大建築学科)の卒業生に興味を持つかと言うとですね。
その数奇な運命が背景にあるからです。
ドラマを背負って生きている魅力を感じます。

特に一期生の五人、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、佐立七次郎、宮伝次郎(卒業前に死亡)。
辰野は唐津藩の下級武士から東大教授に成り上がる。

片山東熊、曽禰達蔵、この二人に共通するのは、戊辰戦争の参加である。

片山は長州藩士の家に生まれ奇兵隊に入隊し戊辰戦争に参戦 。
この時の軍監が、山縣狂介(後の山縣 有朋)
卒業後、片山東熊が宮廷建築家として成功するのは、山縣が後ろ盾となっていたのであろう。

曽禰達蔵は唐津藩氏として戊辰戦争に参加。
敗戦し唐津に戻り、耐恒寮にて語学を学ぶ。
この時、同期に年下の辰野がいた。
講師は、後の首相 高橋是清。
上京、工学寮に入学したのも、高橋のすすめであったという。

詳細は http://wporetro.nobody.jp/architect/sone-tatuzo.html より抜粋
曾禰達蔵は、嘉永5年、唐津藩江戸藩邸に生まれている。同じ藩の辰野金吾と同様、少禄の家の生まれながら、父は祐筆として藩の信任厚く、曾禰自身も十歳頃より、藩主小笠原長国の嗣子長行(ながみち)小姓への抜擢を受けていた。
 曾禰16歳の時、幕府瓦解。老中を辞した長行は、輪王寺宮を擁して東北に逃れる。唐津本藩は日和見の末薩長新政府に恭順、曾禰は長行について、仙台伊達藩領白石へ進んだ。同じ頃会津では、のち曾禰と工部大学校で出会うことになる片山東熊が兄らとともに攻城戦に参加している。その会津、長岡と、奥羽列藩は次々新政府軍に敗れ、長行は仙台に寄港した榎本武揚率いる艦隊にその身を投じ、北海道へと渡った。
 が、曾禰は、渡っていない。長行に突然の帰藩を命ぜられ、曾禰は唐津へ戻った。戻っていなければ、曾禰は、その後の新撰組の土方歳三らのように、北海道で官軍の銃弾に斃れていたかもしれない。
 明治4年、世が鎮まると、曾禰は唐津藩が新設した藩校耐恒寮で英語を学び始める。国元育ちの辰野金吾も新時代の風をもとめたか、ここに身をおいていた。
 明治5年、耐恒寮閉鎖。曾禰は教官高橋是清に従って東京へ移り、立身の途をさがす。わずかに遅れて辰野も上京、翌年、両名どうにか工学寮(のち工部大学校)に入校した。曾禰は一回目の試験で合格、めでたく官費生。辰野は失敗し官費支給の入寮生となれず、遅れて二回目の試験で追いついた。
 明治8年、曾禰は辰野、片山東熊らとともに造家学科を専門科として選ぶ。明治10年、コンドルが教授に着任、明治12年秋、病没した宮伝次郎を除く造家学科第一期卒業生四人のひとりとして、曾禰も世に巣立った。ちなみに主席は辰野。曾禰はその卒業論文をもっとも優れたものと評価されながら、総合点で一番を辰野にゆずった。主席卒業者にはのち、工部大学校での教授就任が約束されている。血気の青年達を御す腕力という面で、コンドルは辰野にあって曾禰にはないものをみていたにちがいない。
 卒業した曾禰は入学時の規程どおり官途に就く。工部省、警視庁、海軍省と、その居所を転々し、明治23年、呉鎮守府建築部長。しかし、同期生のうち唯一人いまだ海外に出たことがないことへの焦りなどから、同年、官を辞することを決意した。官にあって建築を実践するうち、曾禰は自らに造形の才能が足りないことを知ったらしい。そのため良い見本の溢れる海外へどうしても行きたかったようである。選んでしまった道で今後どう生き延びるか、その突破口を求めて曾禰は模索していた。
 曾禰は上京を望み、恩師コンドルに助けを願った。


 曽禰は、朝敵として人生を再スタートしなければならなかった。
建築家ではなく、歴史家になる希望を持っていたが、経済的な余裕はなく、工部大学校の金銭的な条件もあり、
入学を決めたという。
たった、五人の学友のなかで、戊辰戦争の敵同志が並ぶのも数奇な巡り合わせと思う。


 


会津城

2009年 9月 28日

会津城

この本、物語 ジョサイア・コンドル―丸の内赤レンガ街をつくった男
condor


 

 

 

 

 

 

 


この著作の中に、会津は二度、さりげなく出てきます。
曽禰達蔵とコンドルは、師弟関係でありながら、同じ年で、それ以上の関係にあったともいえます。

 

一つは、コンドル(明治10年日本政府の招聘に応じて来日、工部大学校造家学科の主任教授となる)が、日本人 くめ と結婚し日本の「わび」「さび」を学ぶために新婚旅行を兼ねて、三菱グループのバックアップを受けての東北旅行に際して、この城を訪れた。

この本の中では、会津を進めたのは、この学科の第一期生の曽禰達蔵の勧めで訪れたことになっています。

 

二人は、この後、三菱グループと丸の内赤レンガ街を築きあげるわけです。

単なる設計技師としてのスタンスでなく、日本文化に深く傾倒したコンドルのテーマは、
単に洋館を日本に建てるのではなく、オリエンタルを模索していたと思えます。

鹿鳴館がヨーロッパからの来賓にとって、愚作とされたのも、ヨーロッパとオリエンタルの狭間にあるイスラム圏の文化、サラセン様式を取り入れたためとも言われます。

詳細は、忘れましたが、この作品の中で、コンドルが教え子たちに、日本の風土にレンガの建物が似合うかを問う場面があります。

曽禰達蔵は、その中で似合うはずと答えています。

それが、煉瓦色が日本の夕焼けと重なると話していたと記憶します。

実際に、このやりとりがあったかどうかは確認できませんが、
曽禰達蔵とコンドルは、似た境遇にあったと思えます。


それは、二人にとって帰る場所は、ほかになかった。

単に故郷という意味でなく、社会情勢的に、二人とも帰れない境遇であったということに、ほかなりません。

先のブログにも書きましたが、曽禰達蔵は16歳の時に唐津藩士として、
戊辰戦争に参加、上野を脱出し茨城の平潟から会津、白石と逃避行をした彼は、
藩主 小笠原長行の命に従い、函館には同行せず、唐津への帰郷を命じられます。


これが、その後の彼の人生に影を落としたに違いありません。
この城を眺めながら、思うのは、なぜ、曽禰が常に在学中、ほぼ首席でありながら、卒業試験にあたって、辰野金吾に負けたのか?
それは、コンドルの試験の採点に何かが動いたとも言われます。
政治的な後ろ盾が、どこかにあったのか?
しかし、後に首相となる高橋是清がバックについていたと思えます。
現に、高橋の実妹と結婚もしているわけで。


どこかに、この解説は書かれているとは思えますが、
朝敵としての十字架を背負った、曽禰は明治政府の表舞台には立てない、
または、立ちたくない意思表示が、コンドルに伝わっていたのではないでしょうか?

辰野の影になってしまう男。
何か、男の哀愁さえかんじてしまうのです。