アーカイブ 2006年 8月



「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!?」

2006年 8月 30日

ムメちゃんは、以外に教養があり、Nikki

時折、昔を思い出し、

短歌もたしなむ。

新聞の折込広告の裏面に

よく、書いていたので

これに書けと自分の手帳を半年前に

手渡した。

畳の上に転がっていたのでHirano

書いているのかと

無断で覗いてみると

日記帳になっていた。

しかし、私の訪問した日は

こう書いてある。

「平野、来た。」

不躾な書き方で非礼を詫びる

ムメちゃんに、

あまりに、これでは教養がないので

こう書くのが正解だと指導した。

「ヒラノ、キター  キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!?

これが、正しい書き方だ。


私の受難 ムッシュムラムラー

2006年 8月 29日

うちとこのクリニックですが、最近、スタッフも定着し安定しており

私も、安心して外回りを続けられます。

ここにいたるまで、私が未熟者であったが故に幾多の受難を

神はお与えになりました。

昨月まで、アキレス腱と言われた、ドライバーも

やっと、理想どおりの方が入っていただき、安心して、私は繭に包まれた気分で

助手席で寝ていられます。

これまで、前日徹夜だったがために、ふと眠りにつき、目が覚めると

埼玉県や、千葉県にあわや連れ出される寸前であったことが、何度、あったことかわかりません。

自分でも運転をしているからわかるのですが、ドライバーとは、結構、機転を要する仕事です。道を覚えるのも、これは、もう、能力としかいえないわけで。

ある患者さんの状態が、一日のうちに3度も悪化したため、三度、同じ家に向かったのですが、3度とも、到着不能だったこともあります。

気の短い私は

「ムッシュムラムラー。」とつぶやいたこともあります。

半年、毎週のように訪問していたお宅に、半年たっても、迷わずに行けたことが一度もなかったことがあります。道を覚える気がないのでしょうね。

究極は、自宅の庭に、ある高級な「お犬様」が立ちふさがり、近づいてもどこうとしなかったので、私が助手席から降りて、どいていただこうとすると、突然、車を、ゆっくりとスタートさせて、「ヤメロ。」と制止するのも聞かず、

直後、哀れな泣き声ととともに、犬の足から血が流れていたことがあります。

それ以降、私は彼を「イヌゴロシ」と呼んでいました。

こんなエピソードは捨てるほどあります。

今は、とりあえず、幸せな日々を送っています。


尊厳死

2006年 8月 28日

作家・吉村昭氏 自ら点滴の管引き抜き死を選ぶ

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 吉村昭さんの最期を妻で作家の津村節子さんが語ったとき、わが耳を疑った。
闘病の床にあって、自ら点滴の管などを引き抜き、
看護師に「もういいです」と言ったのだという。

 津村さんは「自分の死を決めたことは、彼にとっては良かったかもしれません。

でも、私は目の前で自決する姿を看取ったのです。

あまりに勝手な人だと思います」と泣き崩れた。

 昨年1月、舌がんと判明し、今年になって膵臓(すいぞう)がんも見つかって手術を受けた。「人様に迷惑をかけたくない」との強い希望で、病気のことは徹底的に伏せられていた。津村さんは肺炎だとか糖尿病だとか、病名をごまかした。

 「戦艦武蔵」をはじめ、緻密(ちみつ)で丹念な取材に基づく作品を書き続けた吉村さん。がんが進行しても新聞や雑誌の仕事が支えだった。遺稿となった「死顔」には、自らの死期を知った幕末の医師が高額の薬を拒み、死を迎えた物語が描かれている。最後までこの作品の推敲(すいこう)を続けていたという。

 昭和2年、東京・日暮里生まれ。東京の下町を愛した。この日の「お別れの会」が開かれたホテルは、かつて吉村さんが暮らした土地にたっている。

 白い花に囲まれた、穏やかな笑顔の遺影。会場には愛読者ら600人が集まり、外まで人があふれかえった。「絶対、泣き言は言わない人だった」。50年来の友人、文芸評論家の大河内昭爾さんは語った。

 吉村さんは7月31日死去、79歳だった。(上塚真由)

【2006/08/25 東京朝刊から】

私は,実は,吉村さんの作品は読んだ事がないが,ノンフィクション小説と言われ,史実を忠実に再現することによって作風を磨いていった.

医療系の作品では,心臓移植を扱った「神々の沈黙」がるが,遺稿となる「死顔」の発表が待たれる。

自宅にいたから、この形の死を選べたということだが、家族には一生、重荷になってしまうわけで、私は、点滴の終了に関する説明と抜去は、十分に説明した上で行っている。