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まず、私は、他人でしかない。

2006年 2月 17日

昨日からの続きですが、はじめに、私が他人の死を云々と語るのは自分でもおかしいし、オマエは、ナニサマだと思われても仕方がないと思います。

現に、うちの両親は、まだ、元気で私自身、診療は毎日していますが、介護の経験もありません。患者さんや、御家族のことを、どれだけ親身に考えろといわれても、逃げるわけではありませんが、所詮、私は他人でしかないのです。

先日、このブログに転載されたコメントを、改めて、ここに公開させていただきます。

母が生前大変お世話になりました。やっと父のもとへ旅立たせることができ、ほっとしています。あのような最期を迎え、平野先生が訪問診療時におっしゃっていた言葉をやっと今になって理解することができました。

ある日先生は「いくちゃんは手術の跡もないし、このまま傷つけないできれいな身体のまま送ってあげたい」とおっしゃり、胃糧にも反対されていました。にもかかわらず当時の私は母が生きがいでしたので、たとえどんな姿でも一日でも長く生きてほしい、肌のぬくもりさえあればそれでいいと思っていました。たとえ一方的な介護でも髪に櫛を入れ、顔を拭き、足が冷たければマッサージをし、話しかける。自分はそれをやりぬく自身があったからです。

それが気管に穴を開け機械につなぎ、胃に直接チューブをいれて栄養を送る母の姿を見ているうちに目をそむけるようになってしまいました。あれほど母を大事にしていた自分が、最後の親孝行になるかもしれないといくら思っても、母の姿を見るのはつらいだけで見舞いにもろくに行きませんでした。

さらに延命治療が始まってまもなく精神状態がおかしくなり、どこからともなく緊張や不安がおそってくるようになりました。母が亡くなった今でも、外出や電話に出ることもできずパニック障害と診断されました。

今思えば母のケースのような延命治療は、本人や家族の身体と心へ同時に傷をつけるだけのものだったような気がします。生前の母を思い出そうとしても、管につながれてベッドに横たわる姿しか浮かびません。1月28日に死亡したことにはなっていますが、心肺停止で病院に搬送された昨年10月8日に本当は死んでいたのではないか、それともいまでも病院で延命治療を受けているのではないかと現状をきちんと理解することがまだできません。

そのためか、母が亡くなったら1カ月以上は泣いて過ごすのではと思っていたのですが「悲しい」という気持ちがそれほど湧かず、涙もあまり出てきません。ただ生かすだけの延命治療は、「死」の認識を家族から奪ってしまうものだとわかり、先生のおっしゃるようにしていれば本当の意味で母を送れたのではと後悔しています。

 ここまで、お悩みになっているとは気がつきませんでした。先日、お電話でお話しました。欧米では、御家族、身内がお亡くなりになったあとの、グリーフケアというものがあるようですが、私の知る限り、この地に、この制度はありません。どなたか、精神科医や、心療内科の先生で、こういったことに、興味と熱意をむけていただける方がいれば嬉しいのですが。

 ただ、薬よりも、何か、別な方法での解決がないかとも思います。

最近では、このブログを、私の患者さんの介護家族も見てくれるようになり、逆に、悪気はありませんが、失礼なことは書かないようにプレッシャーとなりますが、今週などは、何件かの御自宅で、診察の後に、このコメントが話題になりました。

 やはり、母と娘の関係での介護者の方からでしたが、

「気持ちが、すごく、わかる。私は、何もしてあげられないけど、話を聞いてあげたい。それで、少しでも気が済むのなら。」と仰っていただきました。

母と娘であれ、息子、嫁、夫婦、いろいろなパターンがあると思えますが、私が、初めて訪れる前に、数十年に及ぶ、二人の間には、歴史があるわけです。突然、そこを訪れて、数十分や、長くて一時間で、そこの土足で踏み込むわけにはいきません。思い入れが深いには、それなりの眼に見えない理由があるようです。例えば、父を若くして亡くして、母と子の二人で、ここまでがんばってきたとか。だから、患者さんが意識がない状態であろうと、たとえ、延命処置と言われようと、相手が、この世に存在して欲しいという切実な思いが、そこにあるわけです。だから、延命をあきらめて下さいと漠然と言ってしまう私にも反省すべき点は多々あることが、この一週間で見えてきました。

 では、どうするのか?

わかりません。ただ、言えるのは自分の親には、無理な延命はしたくないです。しかし、どこからが、延命でという線引きはできません。まだ、ここから、ずっと、考えなくてはならないようです。無力な一開業医として。


高齢者に対する死の考え方

2006年 2月 16日

人はいかなる状況、環境においても、生も死も差別を受けないというのが基本的な考え方である。これは、コモンセンスとして、頭では理解できる。しかし、現状では、平等に生を追求するあまり、死に対しての考え方に関しては、なかなか、議論することさえ、タブーになっているのが、現状と考える。倫理観や道徳観、価値観というものは時代とともに変化するものであろう。しかし、どこかに普遍的なものは、太古から現在にわたって継続しているものもあるはずである。しかし、歴史的に、その考え方自体のパラダイムを激変させることが起こる。それは、科学技術の発達かも知れないし、戦争や、人口動態の変化に基づく社会現象かも知れない。

ありきたりのお題になってしまうが、医学技術の進歩も、その速度以上に新たな倫理問題を投げかける。臓器移植、安楽死に関しても、以前から話題にはなるが、統一したコンセンサスを得られるどころか、議題のところで、静止した状態である。

私に、この話題に関して討論する資格がないと友人達は笑うかも知れない。ただ、死や老いに対する考え方には、多様性があって然りである。これを統一化するのは不可能でもあるし、無意味である。しかし、この件に関して若い頃から、考えようとしないのは愚である。我々は、身近に死を感じながら生きるべきであろう。なぜなら、それは、予期せぬ時に、予期せぬ形で不意に訪れることがある。己に降りかからないとしても、身内や友人に訪れようとした時、冷静に立ち会うことができるだろうか?医師として、私も仕事として、人々の死に立ち会うわけで、家族、友人として、その場に出くわした時に安静でいる自信は、全くない。

ここに、数症例を提示し、私自身の今現在の時点での、死、特に高齢者の老いや死に対する考え方を提示したいと思う。


秋の花火

2006年 2月 15日

秋の花火

 愛子は、まだ、75歳。

5年前までは、夫と一緒に、まだ、商売をしていた。

二人とも、年齢以上に元気であった。

5年前、夫は不意に倒れ、この世から去ってしまった。

その後から、独居状態、家でひきこもってしまった。

夫と二人で暮らしていた部屋で、まだ、歩こうと思えば歩けると思うが、一日中布団にくるまって生活している。食事は、ほとんど、取らない。寝る前に、少量の飲酒をするのが、日課だ。せっかく、ヘルパーさんが作ってくれる食事も、手付かずのままである。

明かりも消したまま、薄暗い部屋で、一日を終える。頑なに、周囲との接触を拒絶し、死を待つといった姿勢である。

愛子は8人兄妹であったが、両親が早く亡くなってしまったため、バラバラの状態で親戚に引き取られて育った。みな、それなりに戦後をがんばって生き抜いた。愛子も夫と、休日どころか不眠不休で働いたのだった。経済的な問題はなく、そろそろ、商売からも引退を考えていた頃、夫は急逝してしまったのだった。子供もいるが、難病で入院しており、一緒に暮らすのは現実的に無理である。

一番仲のよかった姉は、80歳になるが、好奇心も旺盛で、若い頃には海外旅行も経験し、今も、体力の許される範囲で、国内旅行をしている。それゆえ、姉には、旅行もろくにいかずに、働きそして、今は、早く死にたいしか言わなくなった妹が不憫でたまらない。

私が訪問するときも、よく、姉は部屋に訪れている。姉は、いつも妹を励ましているが、妹は「いい加減にしてほしい。」と取り合わない。

差し入れの大福にも見向きもしない。

この姉の依頼で、私はこの部屋を訪れるようになった。

姉としては、少しでも状態をよくしたいという願いがあるようだ。

今日も、この家に近づくと、二人の話し声が聞こえてきた。

「おい、試してガッテンでいいから、はやく、栄養つけて二本足で歩けるようになってさ、駄目なら、私が車椅子を押してやるから、温泉でも行こうよ。」と姉

「ほっといてよ、私は、早くお迎えがこないかなって、いつも思っているんだから。」

と口論になって、姉は、肩を落として、近くのバス停まで、肩を落として歩いていく。

「お姉ちゃんは、昔から、私と違ってさーーー。」

妹は、姉の生き方は、それなりにうらやましいようだ。

「私は、今まで働いたことしかないから、遊びに行こうって言われても、何をしたらいいのかわからないのよ。」

「一体、何のために生まれてきたのかわかんないわ。早く、お迎えが来ないかしら。」

 そんな、10月の中頃、訪問すると姉が、傍らでお茶を飲んでいた。

愛子の枕元にも、お茶を注がれたマグカップがおかれているが、手付かずで冷め切ってしまったようだ。姉に背を向け、寝ているようだ。いや、寝ているふりをしているようだ。

 その傍らで80歳の姉が、「妹はね、昼も夜もなく働いて、遊ぶって事を知らないのね。亭主が亡くなったら、まだ歩けるのに、引きこもちゃってさ。このまま、死なせたら不憫でさ。みんなに危ないから、やめろって言われたけど、私も意地になってさ、タクシーに車椅子積んで、二人で土浦の花火を見に行ったのよ。」

土浦では桜川べりで、毎年、10月の第一週に、花火大会が行われる。全国から花火職人が集まり、翌年の展示会的な意味があり、テレビでの中継もある。秋の風物誌だ。私も、ここ数年、河原で見ている。群衆が、すごく、帰りには、歩けば15分ほどの道程を、1時間ほどかけて、帰るようになる。危険さえ感じることがある。

 あの河原に、この姉妹はいたのだ。

「帰りは人混みで、危ないから、みんなが帰るまで二人でじっとしてね。2時間ぐらいして、誰もいなくなったら、一番最後に桜川の土手を、一生懸命車椅子押して歩いてね。そしたら、妹がこう言うの。花火見てたら空襲思いだしちゃった。あの時も二人で手を握って逃げたっけね。本当に、この人ってさ、何を見せても人生、楽しもうってしないのよ。後ろから、頭をひっぱたいちゃった。今度は、ディズニーランドに連れて行ってやろうと思ってさ。」

愛子が不貞寝している枕元に、二人が両脇に犬を従えて、大笑いしている写真がある。

街にサーカスが去年来たときに、入り口での記念撮影だそうだ。

愛子ちゃんの、お口は犬よりも大きく開いている。

人生を楽しんでいないわけじゃないのだ。

瞬間的には、楽しんでいるんだ。

年老いた姉に迷惑をかけたくないという気持ちが、いまだにあるのだ。

だから、素直に姉の前で喜べないのだ。

いつか、この机にデイズニーランドでのスナップ写真が加わるのを、私も待っている。

何歳になっても姉妹は姉妹。

お互い、迷惑をかけても、それは、それで、お互いの生きがいなのだから。