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白川郷 結(ゆい)

2010年 4月 20日

新緑まぶしい田園に点在する茅葺き屋根。合掌造りで知られる岐阜県白川郷は、日本の原風景を今に伝えている。1995年には世界文化遺産にも登録された。建物や景観だけでなく、地域に根づく住民同士の相互扶助の営みが高い評価を受けたのである。
田植えや冠婚葬祭などの際に人手を出し合い暮らしてきた白川郷の人たち。その象徴といえるのが、茅葺き屋根の葺き替え作業である。地域の数百名が集まり、一気に屋根をふき替えていく。この仕組みは“結”と呼ばれ、“結”なしには、合掌造りの景観は存続しえなかった。
こうした互助制度は、かつて日本中の村落で見られたが、今ではそのほとんどが廃れてしまっている。白川郷も例外ではなく、住民同士の絆は薄れつつあるという。“結” の精神をなんとか失うまいとする白川郷での模索を見つめ、地域で支え合いながら暮らすことの意味を考える。



この番組の中で
出てくる言葉「結 ゆい」
この一軒の屋根の葺き替えに
四、五百人の労働力が必要なのだという。

まず、家の代表が、村を一軒、一軒回って、「結」への参加を挨拶して、お願いして回るシーンがある。
実は、こんな事をせずとも、職人を頼めば、機械を使用して、少人数で、お金で解決することも可能なのだが、
敢えて、「結」を行ったドキュメント。

葺き替え終了後の、酒を酌み交わすシーンなど、「結」は単なる屋根の葺き替えの意味以上の物を意味することがわかる。

かつて、日本に存在した「共同体」の姿なのだ。
この作業を通じて、親から子へと、伝統的方法の伝授と、これは文化の継承を行っている。

と同時に、そこに住む人々の結束を維持するシステムとなっている。

今風に言えば、コミュニティとか、ユニオンと言った名前を付けるのでしょうが、
「結 ゆい」という言葉に「大和ことば」の美しさを感じる。


異類婚姻譚 いるいこんいんたん オシラサマ

2010年 1月 7日

遠野物語・六十九話

昔ある処に貧しき娘あり。
妻はなくて美しき娘あり。
また一匹の馬を養ふ。
娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦に成れり。
ある夜父此事を知りて、其次の日娘に知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。
その夜娘は馬の居らぬより父にたずねてこの事をしり、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首にすがりて泣きゐたしを、父は之を悪みて斧を以て馬の首を切り落せしに、忽ち娘はその首に乗りたるまま天に昇りて去れり。
オシラサマと云うはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像をつくる。

この話、オシラサマは、民俗学者 柳田國男が明治43年に発表した岩手県遠野に伝わる伝承 オシラサマを
世に紹介して、一世風靡した。

これを読んで、いつかは遠野に出かけようと、学生時代、夜中に遊びに来た二人を
誘って、深夜に遠野に向かって、私は出かけた。

その時は、遠野に着いただけで、十分だった。
それだけで、全てで、オシラサマの伝説よりも、この曲を流しながら、
遠野を自転車で走っていることが全てでした。

当時、頭の中で、こう解釈して、一緒に旅に出た、今は整形外科医のカノチンに講釈して悦に入っていました。
「まあ、曲屋を見れば、遠野の人間が、家族同然に馬と暮らしていたのはわかる。
しかし、馬と人間が駆け落ちするわけはない。
こういうことだろう、三陸沖に捕鯨にきたロシア船が三陸沖で難破したわけだ。
陸に上がり、いつの間にか、山間部を放浪して、遠野にたどり着いた。
白い馬は、白人を意味しているのだろう。
当時の日本人にとって、白人は異民族、異人であるどころか、
初めて見た場合、悪魔、天狗、鬼にさえ見えたであろう。

しかし、そのうちの一人が村に住む娘と言葉やら、何やらの壁を越えて
恋に落ちた。
そう、フオーリンラブだ。
しかし、父親は、当然、それを許すわけにはいかない。
殺害を企てようとするのだが、二人は駆け落ちしてしまったという伝説に違いない。」

しかし、その後、資料を読み、解説者に質問をすると、
この物語の当時、何時代を示すのかはわからないが、ロシア大陸には、アジア系の民族が居住しており、
コーカサス系などの白人は存在しなかった。

この「おしらさま」には別の意味があるというのだ。


狐の恩返し 1

2009年 12月 9日

子供の頃、ほぼ、毎日、聞かされた昔話です。

いわゆる「狐の恩返し」です。

牛久と龍ヶ崎を結ぶ地点に、「女化 おなばけ」という地名があり、この地名の由来となった、少し物悲しい話です。
今も、この伝説の地には「女化稲荷」が残っています。

ここに出てくる、子供たちの末裔は今も、残っていると言われており、
金色の産毛と高い鼻を持つといいます。

私が母方の祖母から聞いた話のパターンは、これと少し異なっています。

探して見ましたが、そのパターンは見つかりませんでした。
しかし、聞き間違えとは思えないのです。
その話は、また、別の日に書くとして、今日、ご紹介するのは、おそらく、最もクラシックなパターンではないかと思われます。

以下、竜ヶ崎市役所のHPから抜粋

ちょっと悲しい昔話「キツネの恩返し」。全国的に知られる有名なこのお話は、実は龍ケ崎市にある女化神社(おなばけじんじゃ)に伝わるお話です。女化神社では、あちこちに狐の姿を見ることができます。
ある日、忠七(ちゅうしち)という農夫が、狩人(かりうど)に狙われていた白狐をみて気の毒に思い、咳(せき)払いをして助けてやります。狩人には手持ちの金を渡して許してもらい、家に帰りました。その晩、50歳くらいの男と20歳くらいの女が「一晩の宿を貸してください」と訪ねてきました。忠七親子はふびんに思い泊めてあげます。
翌朝、女は泣きながら「私は奥州岩城郡(おうしゅういわきぐん)の者で、鎌倉の叔父(おじ)を訪ねるのに家来とともにここまで来ましたが、夕べ寝ている間にその家来がお金を持って逃げてしまいました。しばらくここにおいてくれませんか」と言います。優しい忠七親子が家においてあげると、女は田畑の仕事や針仕事など何でも良くやり、とてもきれいな娘でもあったので、忠七親子はたいへん気に入り、結婚することになりました。
やがて8年の歳月が過ぎ、2人は7歳のお鶴を筆頭に5歳の亀松、3歳の竹松の3人の子に囲まれて暮らしていましたが、母となった女は実はかつて忠七が助けた狐。ある日子どもを昼寝させているときに自分もウトウトして、ついうっかりしっぽを出してしまったのです。
子どもにしっぽを見られてしまった女は、この家を出ることを決意しました。かわいいわが子と別れるつらさ、その気持ちをうたった「みどり子の母はと問はば女化の原に泣く泣く伏すと答へよ」の歌が残されています。女は末っ子の竹松の帯にその歌を書いた紙を結びつけて、根本が原に帰りました。
寂しくて仕方がない子どもたちと忠七。戻ってきてほしい、せめて顔を見せてほしいと何度も根本が原を訪れ、女は一度だけ巣穴から顔をのぞかせましたが、すぐに奥へ入ってしまいました。女の決意の固さを知った家族はあきらめて家に帰り暮らしましたが、子どもたちはそれぞれ立身出世して、立派に生きたそうです。この伝説から、根本が原は「女化の原」と言われるようになりました。