境界 結界 1

最近、講演会で日本の家屋について、どうしても話したくて
話を「看取り」から強引に日本家屋につなげてしまうのです。

先日、福岡、飯塚にある伊藤伝右衛門邸を訪れた時に
解説の方が「結界壁」という言葉を使用されてました。

伊藤邸は、石炭王にして衆議院議員、そして実業家として
福岡銀行の前身、第十七銀行を設立した伊藤伝右衛門の本宅。

しかし、読めば読むほど、この邸宅は物語でして

wikiによると

1911年(明治44年)に伯爵柳原前光の娘燁子と再婚した。新郎新婦とも再婚で、伝右衛門は数え52歳、燁子は数え27歳と親子ほども年の差の離れた結婚であった。この結婚には燁子の兄義光の貴族院議員出馬資金調達と伝右衛門側の名門との結びつきを求める利害が一致しての政略結婚色が強いものであったが、伝右衛門は飯塚の本邸に加え、福岡市薬院と別府市山の手に「あかがね御殿」と称された豪奢な別邸を造営して新妻を迎え、歌集の出版資金を出したりもしている。

だが、新婚当初から公家の令嬢として育ち歌人として既に世に出ていた文化人肌の燁子と叩き上げの実業家で川筋気質、女性関係の出入り激しい伝右衛門の夫婦仲は冷たいものであった。伊藤家には伝右衛門の妾らも一緒に暮らしており、彼女らとの関係でも燁子は苦悩した。

内部は、写真撮影が禁止されておりました。

「結界壁」

これを検索しても解説は見つかりません。

この邸宅の二階に庭を見下ろす形で燁子の部屋は配置されています。
かなり、広い間取りで、周囲の自然、庭園を見渡しながら、ここで句を詠んでいたと想像されます。

明治も四十四年、明治維新から時が経過したとはいえ、
精神の開放や、ヒエラルキーは、根強く残っていたと、この家屋を眺めると想像されます。

たたき上げの伝右衛門は、文盲であったと言われます。
逆に、燁子は歌人としても著名であり、福岡時代は伊藤の設立した嘉穂郡立技芸女学校の教官として尽力したようです。

京都から伯爵家出身の燁子を迎えた伝右衛門の姿勢が、この邸宅の、この「結界壁」が語っています。

「結界壁」は、二階の燁子の部屋の入り口部に設けられています。

壁といっても、実際は、さりげない欄間のようなもので、解説を受けないと気付きません。

この壁より内部に伝右衛門は入らんかったと言います。

それが、各自の生い立ちに因するのか?
当時、まだ、身分制度が残っていたのか?
伝右衛門の燁子に対する畏敬の念か?
それとも情愛か?

とにかく、ここには「結界壁」という心理的な精神的なバリアーが張られていたのだと理解できます。

理解したと同時に、これと同じような物を見て、実際、経験していた事を思い起こしたのです。

記憶が一気に四十年以上遡るのですね。

時は、保育所に通う以前の四歳の自分。
場所は、実家の近所にあった元衆議院議員。
親子二代で龍ヶ崎町長を歴任した龍ヶ崎の名門諸岡家。

諸岡邸でのこと。

まだ、礼儀も作法も知らない私に、

周囲の大人は、この家に入る時は、まず、この赤レンガ門で頭を下げて、さらに、玄関を入る時は
時代が時代ならば、平民である私たちは、ここからは入れませんと、別口から入るように躾けられた諸岡家。

あの玄関口の構造、廊下、今思うと、全てが結界を切っていたと思われます。

確認したいのですが、ここは不審火で、かなり昔に燃え尽きてしまいました。

私が遊んで頂いた、この家の当時でも老女、しかし、品を感じさせた女主人も、もういません。

しばらく、廃屋になっていましたが、今は、確か福祉施設の「もみじ館」となっています。

あの邸宅の中を自由に歩けたのは、ラッキーでしたが、当時4歳では、その価値は全く理解不能でした。

しかし、四十年を経過して、「結界」を思い起こさせる場所となっているのです。




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    ピンバック by 箸は結界なのだ « ドクピラ・ブログ — 2012年3月23日 @ 7:04 AM

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