曽禰達蔵

いいすか?
なぜ、私が、ここまで工部大学校造家学科(東大建築学科)の卒業生に興味を持つかと言うとですね。
その数奇な運命が背景にあるからです。
ドラマを背負って生きている魅力を感じます。

特に一期生の五人、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、佐立七次郎、宮伝次郎(卒業前に死亡)。
辰野は唐津藩の下級武士から東大教授に成り上がる。

片山東熊、曽禰達蔵、この二人に共通するのは、戊辰戦争の参加である。

片山は長州藩士の家に生まれ奇兵隊に入隊し戊辰戦争に参戦 。
この時の軍監が、山縣狂介(後の山縣 有朋)
卒業後、片山東熊が宮廷建築家として成功するのは、山縣が後ろ盾となっていたのであろう。

曽禰達蔵は唐津藩氏として戊辰戦争に参加。
敗戦し唐津に戻り、耐恒寮にて語学を学ぶ。
この時、同期に年下の辰野がいた。
講師は、後の首相 高橋是清。
上京、工学寮に入学したのも、高橋のすすめであったという。

詳細は http://wporetro.nobody.jp/architect/sone-tatuzo.html より抜粋
曾禰達蔵は、嘉永5年、唐津藩江戸藩邸に生まれている。同じ藩の辰野金吾と同様、少禄の家の生まれながら、父は祐筆として藩の信任厚く、曾禰自身も十歳頃より、藩主小笠原長国の嗣子長行(ながみち)小姓への抜擢を受けていた。
 曾禰16歳の時、幕府瓦解。老中を辞した長行は、輪王寺宮を擁して東北に逃れる。唐津本藩は日和見の末薩長新政府に恭順、曾禰は長行について、仙台伊達藩領白石へ進んだ。同じ頃会津では、のち曾禰と工部大学校で出会うことになる片山東熊が兄らとともに攻城戦に参加している。その会津、長岡と、奥羽列藩は次々新政府軍に敗れ、長行は仙台に寄港した榎本武揚率いる艦隊にその身を投じ、北海道へと渡った。
 が、曾禰は、渡っていない。長行に突然の帰藩を命ぜられ、曾禰は唐津へ戻った。戻っていなければ、曾禰は、その後の新撰組の土方歳三らのように、北海道で官軍の銃弾に斃れていたかもしれない。
 明治4年、世が鎮まると、曾禰は唐津藩が新設した藩校耐恒寮で英語を学び始める。国元育ちの辰野金吾も新時代の風をもとめたか、ここに身をおいていた。
 明治5年、耐恒寮閉鎖。曾禰は教官高橋是清に従って東京へ移り、立身の途をさがす。わずかに遅れて辰野も上京、翌年、両名どうにか工学寮(のち工部大学校)に入校した。曾禰は一回目の試験で合格、めでたく官費生。辰野は失敗し官費支給の入寮生となれず、遅れて二回目の試験で追いついた。
 明治8年、曾禰は辰野、片山東熊らとともに造家学科を専門科として選ぶ。明治10年、コンドルが教授に着任、明治12年秋、病没した宮伝次郎を除く造家学科第一期卒業生四人のひとりとして、曾禰も世に巣立った。ちなみに主席は辰野。曾禰はその卒業論文をもっとも優れたものと評価されながら、総合点で一番を辰野にゆずった。主席卒業者にはのち、工部大学校での教授就任が約束されている。血気の青年達を御す腕力という面で、コンドルは辰野にあって曾禰にはないものをみていたにちがいない。
 卒業した曾禰は入学時の規程どおり官途に就く。工部省、警視庁、海軍省と、その居所を転々し、明治23年、呉鎮守府建築部長。しかし、同期生のうち唯一人いまだ海外に出たことがないことへの焦りなどから、同年、官を辞することを決意した。官にあって建築を実践するうち、曾禰は自らに造形の才能が足りないことを知ったらしい。そのため良い見本の溢れる海外へどうしても行きたかったようである。選んでしまった道で今後どう生き延びるか、その突破口を求めて曾禰は模索していた。
 曾禰は上京を望み、恩師コンドルに助けを願った。


 曽禰は、朝敵として人生を再スタートしなければならなかった。
建築家ではなく、歴史家になる希望を持っていたが、経済的な余裕はなく、工部大学校の金銭的な条件もあり、
入学を決めたという。
たった、五人の学友のなかで、戊辰戦争の敵同志が並ぶのも数奇な巡り合わせと思う。


 




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