会津城

会津城

この本、物語 ジョサイア・コンドル―丸の内赤レンガ街をつくった男
condor


 

 

 

 

 

 

 


この著作の中に、会津は二度、さりげなく出てきます。
曽禰達蔵とコンドルは、師弟関係でありながら、同じ年で、それ以上の関係にあったともいえます。

 

一つは、コンドル(明治10年日本政府の招聘に応じて来日、工部大学校造家学科の主任教授となる)が、日本人 くめ と結婚し日本の「わび」「さび」を学ぶために新婚旅行を兼ねて、三菱グループのバックアップを受けての東北旅行に際して、この城を訪れた。

この本の中では、会津を進めたのは、この学科の第一期生の曽禰達蔵の勧めで訪れたことになっています。

 

二人は、この後、三菱グループと丸の内赤レンガ街を築きあげるわけです。

単なる設計技師としてのスタンスでなく、日本文化に深く傾倒したコンドルのテーマは、
単に洋館を日本に建てるのではなく、オリエンタルを模索していたと思えます。

鹿鳴館がヨーロッパからの来賓にとって、愚作とされたのも、ヨーロッパとオリエンタルの狭間にあるイスラム圏の文化、サラセン様式を取り入れたためとも言われます。

詳細は、忘れましたが、この作品の中で、コンドルが教え子たちに、日本の風土にレンガの建物が似合うかを問う場面があります。

曽禰達蔵は、その中で似合うはずと答えています。

それが、煉瓦色が日本の夕焼けと重なると話していたと記憶します。

実際に、このやりとりがあったかどうかは確認できませんが、
曽禰達蔵とコンドルは、似た境遇にあったと思えます。


それは、二人にとって帰る場所は、ほかになかった。

単に故郷という意味でなく、社会情勢的に、二人とも帰れない境遇であったということに、ほかなりません。

先のブログにも書きましたが、曽禰達蔵は16歳の時に唐津藩士として、
戊辰戦争に参加、上野を脱出し茨城の平潟から会津、白石と逃避行をした彼は、
藩主 小笠原長行の命に従い、函館には同行せず、唐津への帰郷を命じられます。


これが、その後の彼の人生に影を落としたに違いありません。
この城を眺めながら、思うのは、なぜ、曽禰が常に在学中、ほぼ首席でありながら、卒業試験にあたって、辰野金吾に負けたのか?
それは、コンドルの試験の採点に何かが動いたとも言われます。
政治的な後ろ盾が、どこかにあったのか?
しかし、後に首相となる高橋是清がバックについていたと思えます。
現に、高橋の実妹と結婚もしているわけで。


どこかに、この解説は書かれているとは思えますが、
朝敵としての十字架を背負った、曽禰は明治政府の表舞台には立てない、
または、立ちたくない意思表示が、コンドルに伝わっていたのではないでしょうか?

辰野の影になってしまう男。
何か、男の哀愁さえかんじてしまうのです。

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