いじめ

今日の国会は「いじめ」そして、高校の未履修問題の二つがテーマだったようですね。

ある学校の校長が「いじめ」の定義をしていましたね。

相手が、いじめられたと感じた時に、その行為は「いじめ」と認定されると。

虚しい空論です。

昔、笑い話で、こんな話がありました。

SMの世界で言うところの、マゾに分類される人にとって、

「いじめられる」事は、つらい環境なのか? それとも、絶好の良い環境なのか?

今日の国会で、オマエラニそんな議論をする資格があるのか?と問いたい場面がありました。

ある政党は、その歴史に未解決のリンチ問題が残っているし、

ある政党の下部組織において、2003年の広島で起きた

ある校長の自殺問題が、どこにあったのか?

自民党においても、郵政民営化の際に反対した議員の追放など、

いじめの際たるものではないかと、問いたい。

いじめとは、心理学的にも、生物学的にも人間の本能に存在するものである。

つまり、人類が存在する限り、いじめは存在するわけ。

これを、倫理や宗教によって排除しようとすると、今度はそれを抑制しようとした

倫理や宗教の価値観が、新たな差別を生み出すというパラドックスが生じる。

自分の人生を振り返ると、「いじめている時間」と「いじめられている時間」を比較すると

圧倒的に、「いじめられている時間」が多かったと記憶する。

悲惨の一言。

ただ、ひたすら時が過ぎるのを待つしかなかった。

自分の居場所を探して、ひたすら歩いていたら、今の場所に辿りついた感がある。

「いじめ」を肯定するわけではないけど、対策の一つとして、

このストレスに対する耐性を身に着けるのも一つと思える。

確かに、今の「いじめ」は陰湿かもしれないが

現代の日本、飢えと戦争によるストレスじゃ、今のところない。

いや、北を眺めれば、意外と身近なストレスかも知れないが?

微生物の授業で、薬剤耐性(あらゆる抗生剤が効かなくなる事)の抗議を受けたとき、

頭の中で、こんな事を考えていた。

人間もある種のストレスを加えた時に、脱落するグループと

その環境を、乗り越えてしまうグループがいるのだ。

そう、だから、じっと耐えるしかない。

そう、私は多剤耐性菌のように、強く生きたいと思った授業だった。




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