同門会

夜、6時30分から。呼吸器内科同門会出席。

何よりも、嬉かったのは、みんなと会えることです。

大半の先輩は、普段、仕事の中で、御迷惑をおかけしているので

お会いしていますが、この日は、

初代教授の、長谷川先生が遠路、訪れていただきました。

「最近、がんばっているらしいじゃない。

君がいることは、自宅で死にたいと願う人にとって福音ですよ。」

と声をかけていただきました。

先生のスピーチの中に

「私を知らない世代の方もいらっしゃると思いますがーーー。」

という言葉がありました。

他の科の初代の教授に、夜、呼び出されてこう言われたことがあります。

「同門界に行ったら、誰も私の周りに来ないんだ。知らない、おじさん扱いされたから

もう、あの会には行かない。お前らを呼び出して、遊んでいたほうが楽しい。」

そう、同門会を活性させなくては、こういった悲劇が起こるわけですね。

「お前たちが、もっと外から盛り上げなくてはね。」

とこの日も、諭され、少し、外に出て考えてみましたが

この同門会、一つとっても、難しいものがあります。

世代間のコミュニケーションの断絶というものがあります。

コミュニケーションは、いわゆる一つの愛情表現と思います。

ゆえに、片思い的な一方的なものは、いずれ継続不能となるわけですよね。

今、自分の仕事の中で、考える言葉にコミュニテイというものがあります。

人が数人集まれば、コミュニテイというのかも知れません。

公衆衛生の最初の授業でも、当時の教授が、やかましく、この言葉を

連発していたのを思い出します。当時は、全く、考える気にもなりませんでしたが。

なぜ、難しいか、こんな例があります。

その日、あるレジデント達が、焼肉屋で宴会をしており、

私の携帯に電話をかけてきました。

つまり、私を財布にしたかったわけですね。

若手と話せるのはいいことだと、そこへ参上しましたが

やはり、勝手に酔っ払い、ウダを巻き、私には誰も、話しかけてきませんでした。

最後に、私に領収書だけを持ってきました。

実に悲劇です。

私は、現金を叩きつけ帰ろうとしましたが、玄関まで誰も、見送りに来ませんでした。

さらに、翌日、別件で大学病院に用があり、歩いていると

昨晩の研修医グループが向こうから、固まって歩いてきました。

そこで、また、悲劇が私におこりました。

挨拶も、全くなく、通りすぎていきました。

視野狭窄?  認知不能? 発語障害?

こんな時、15年前の私だったら、どうするか?

「どうも、どうも、どうも、昨日はありがとうございました。

お忙しいのに、すみませんでした。レジデントの平野です。

先生のお話、とても、面白かったです。

また、いろいろ教えてください。

今度、また、あんな席ですが、お呼びして、よろしいでしょうか?

本当ですか? みんな、喜びます。

先生、何か、いいアルバイトありましたら、まわしてください。

先生の患者さんに、私のようなものが、何もできませんが、

入院が必要でしたら、お電話ください。

本当に、ありがとうございました。」

ざっと、こんな具合ですね。

もちろん、心からの感謝を込めて、

そして相手方には、何をしたら喜んでいただけるかを考え、

さらに、今後も継続的に、関係が円満に続くように。

これが、コミュニケーションでした。

そして、この関係は、今も続くわけです。

岩崎先生、加納先生、どうも、ご馳走様でした。

また、どこかでお話を聞かせてください。

岩崎先生に電話をしてみようかな、しばらく、お会いしてないし

新橋のガード下で、飲もうって、手紙に書いてあったけど。




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